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学びの共同体」の実態 

 

 

※ 「2015.10月まで本稿は「「学びの共同体」という魔物」というタイトルで掲載してきたものですが、一部のご意見により表題の通り「学びの共同体の実態」に変更致しました。

他項適正配置における「切磋琢磨」という魔物」文章中、事例として、佐藤学氏の 提唱「学びの共同体」

思想について記しています。これに関して、保護者・教師の方など、何通かメールを頂きましたが、言葉が

足りず誤解も あったよう ですので、「「学びの共同体」の実態」と題して、私の考えを以下、記載いたします。

「学びの共同体」思想に係わる方々・特に教育現場の方々の、1つの参考になればと願います。

まず、はじめに

1,思想の原典から解明する

佐藤 学氏の提唱する「学びの共同体」思想は、

● ジョン・デューイ(1859〜1952)  ・wiki
● ネル・ノディングズ(Nel Noddings 1929〜 ケアリング倫理の主唱者)
● ジーン レイヴ(Jean Lave)
● エティエンヌ・ウェンガー(Etienne Wenger)
● ドナルド・ショーン(Donald A. Sch¨on)

などの理論をベースにしています。これらについて語ると、広範になりますので、ここでは控えますが、それぞれ、名前をサイト検索なりして、まず概略をつかみ、そこから書籍を購入するなど学びを深めて下さい。

このソース元から見る、という作業が大切です。原典から紐解くことで、 その時代背景や価値が浮き彫りになり、それにもまして利点があります。つまり、何十年も前から実施されていた理論ですから、当然の事ながら

  ・その思想が社会にどういう影響を与え、どういう発展をしたか、また、
  ・どういう問題点を残したか

などが見えてきます。

【教育は長期スパンで見る】
授業参観や研究授業、実施校のデータなどから、安易に「素晴らしい教育!我が校でも」と即断してしまう 教育関係者がいます。ひどいものになると「授業が静か」だけで「素晴らしい」と烙印をおしてしまう境域関係者もいます。
 「静か」でイコール良く聞いている・理解している。とは限りません。
教育はあくまでも長期スパンで見なければならず、瞬間の姿・短期的な成果だけで即断するのは早計です。
そういう意味からも、原典を見て、その教育が、長い歴史の中で、どういう展開をし、結実したか?を見る方がズレが小さくなります。

【理論は都合の良いセオリーを集める性分がある】
常に理論は、その理論構築に都合の良いものを集積する性分があることも把握しておかなければ なりません。 公平性が要求される教育分野では特に、です。

さて、本題に戻りますが「学びの共同体」思想については、佐藤学氏 の指導による実践校もありますが、書籍・講義内容(放送大学など)で確認することができます。書籍購入などで理解を深めて下さい。

よって、ここでは、あえて一般には指摘されることのなかった、 共同体思想の源泉ともいえるデューイの思想が1980年代の10年間、採用されたアメリカでどういう顛末となったのか?また、「学びの共同体」思想を採用する日本の学校の現状を参考に、以下5つの 特性があるとして、私見を交えて説明を試みます。
当然のことながら「共同体思想」と「デューイの思想」は異なりますが、ほぼ近似した内容を有していますので参考にして頂きたいと思います。

 1,いじめ、犯罪の増加   (時として、発砲事件による警察介入など)

話しを良く聞き、生徒自らの「気づき」や「やる気」に優位を置くので、気づきまでの能力に至らない子ども達の場合、受信型教育・教授法においては、 教師の力量に左右される側面が強く、トータルに見ると「もどし、つなげる・・・・」という修正が充分にできず、いじめ・犯罪などが増加を招きました。
この現象の背景には、デューイの核心的教育哲学に係わる課題が潜んでいます。デューイ以前の教育哲学においては、 カントしかり、ヘーゲルしかり、教育目的というものを設定します。しかし、デューイの特徴は、
目的は時代の価値観や環境によって変換するもので、絶対的究極の目的などはない
という立場から、教育目的は
「たゆむことのない成長・絶えざる経験の再編成」
それ自体だとします。 特に、子どもを取り囲む教材や教授法が子どもの興味・関心を引くべく設定されるべきであるとします。この論は一見、正論のように見えます。 しかし、これが落とし穴となります。いわゆる、カントなどのように道徳律に即した人間を育てる、というようなスタンスもなく、単純に「成長」が目的ですから、

「では一体どこに向かって成長するの?」
「それって、どんな成長なのよ?」

となると無力であり、特に犯罪など万人が認める悪に対しての補正が充分に効かず、結果として犯罪(相次ぐ校内銃乱射事件など)の増加を招く結果となったのです。 この究極の目的を定めない手法は、分析哲学の観点からは成立しても、生命現象の視点から見ると誤りとなります。
  ・植物の蔓(つる)が、まず目的地点を定めて、スパイラル構造を形成し生育する。
     (詳細は他項、
大自然から「生き方」を学ぶ (ニガウリの成長を通して) 参照のこと)
  ・精子が卵子という目的に向かって進もうとする。
     (詳細は他項、
助け合いの生物学 参照のこと)
 
 ・人間60兆の細胞が、有害細菌に総出で対抗し、免疫力を高める。
など、命あるものは全て「目的」をもって存在しており、「目的」こそが存在を可能にしていると言っても過言ではありません。(実態は、無機物も全て目的をもって存在している)
これに反して、 デューイは、目的を相対的として変動可能なものにしているので、一見、論理上は正論のように見えて全て、命に違背した空論だという事です。

実際に、助け合うはずの共同体が、個々の独善的な目的設定で錯綜し・混乱を招き、いじめ・犯罪の増加を招いたのは至極当然のことと言え ます。一言でいえば、人間を「甘く見た」ということになるでしょう。
 

ここには、教育学に関するとても大切な問題が潜んでいます。いわゆる、分析哲学の領域からのみ教育学(教授法)を構築してはならない、ということです。教育とは人を育てる、人を育むという分野ですから、 むしろ生命現象というものがどうなっているのか、という生物学の分野も射程にして構築されなければならないのです。
分析哲学で右と出ても、命が左と出れば、修正して左を選択すべきだと言う事です。
悲しいかな、現在の教育学には生命現象からみた人間分析が晴れやかに欠けています。
今後は生物学をも射程にした教育学の構築が望まれるでしょう。

因みに倫理感・道徳律に基づき目標設定をする、いわゆる、あるべき姿を問う教育分野では、明快な理想を掲げます。ここでは、 いつ・いかなる理由・考えがあろうとも、
子どもが人に迷惑をかけたら、人権云々の前に、理由も聞かず
 ・ 「人に迷惑をかけてはいけない」
 ・ 「人を殴ってはいけない。殺してはいけない。」
と叱り飛ばす。こういうシーンが許されることになります。ここで子どもは
「理由なんてないんだ、やっちゃいけない事があるんだ」
という事に気づきを与えることになります。

 2,権利を主張し、義務を果たさなくなる。

上記の通り、 教師は変動可能(不安定)な目的のもとに、子どもの「興味ややる気」に力点を置き、子どもの意見を安易に裁くことなく、良く聞きリボイス(※)するので、 「学びの共同体」思想の本意に反し、1人1人の権利 (したいこと)がウェイトを大きくし、義務(すべきこと) 感が希薄になります。
やる気や興味を高め、積極的な学びに導くには、どうすれば良いか?、
「まず、子どもの考えを良く聞く事」そして、大人の了見で安易に裁かない事、導かない事」
これも間違いでありません。しかし、子どもの考えには、惰性や自堕落が発生する場合が多く、ここには「目的」を示しながら、「目的」とのズレを本人に「気づかせる」べく上質な「導き」が必要になります。 「学びの共同体」思想では、ここで上質な「テーマにもどす」という行為が必要になります。しかし、単元のビジョンはあっても、終局の目的を欠いていますから、 ズレの補正が効かなくなる。悪く言えば「わがまま」な子どもに育つということです。
「学びの共同体」思想は、徹底して子供中心主義の学校構造をつくろうとしています。確かに学校は子どもが主役となって構築されなければなりません。しかし、そこには、 生きる目的とその目的を外れたら軌道修正する仕組みが稼働しなければならないのです。 それが本人の気づきによって成立しなければなりませんから「もどす」行為が必要になる。しかし、そこに「もどし方」に配慮を欠くと発展はなく、教師の資質に大きく左右されてしまうのです。結局、アメリカでは教員資質向上のための環境も整わず、保護者を巻き込む事 もできなかった為に「共同体」思想は、自分の考えを主張するに力点が置かれ、すべき事・しなければならない事が希薄になり、結局、家庭崩壊の素因を形成し たのです。よって家庭では
 ・学校の先生は良く話しを聞いてくれるのに母さんは話しを聞いてくれない。
 ・宿題しなければならないから、手伝いはできない。
と言った具合で、いわゆる「わがまま」が表出するようになります。
よって「学びの共同体」思想の利点は、完成度の高い教育体制のもとで教師と保護者が一体となって進行させなければ、後述する、「学力格差の問題」のように、多大な弊害を生み出してしまいます。
ところが、「学びの共同体」による教授法を、新卒教師にいきなり担任を持たせ、強引に推し進めている、というのが実態です。新卒教師は
「私に出来るだろうか?」
と不安になり、保護者の前で
「この教育方針は知らないので、不安でいっぱいです・・・・」
と素直に言ってしまう。それを聞いた保護者は、それ以上に
「この先生、大丈夫だろうか?」
と、ますます不安になる。その不安が子どもに伝わり、時として、子どもの前で教師批判をしてしまう。さらに・・・・・・・と悪循環し、結局、子ども達にしわ寄せがかかるのです。挙げ句に、提唱者は、「公開授業では、○年以上のベテラン教師を充てなさい」と、実態を出すことなく、実態隠しを指示する。参観していた他校教師は、「これはスゴイ」とあたかもこの授業が全校的に実施されていると錯覚し、自校に提案する・・・・
また、管理職は、管理職で新任教師に対して
「私も着任したばかりで、これからです。始めてなので、不安なのは当然でしょう。
                                             実践を通して、少しづつ、本を読みながら理解を深めて下さい。」
と言うしかなくなる。いわゆる、「学びの共同体」なる教育現場は、子供中心主義であるはずのものが
管理者総ぐるみで、教師のための「教員研修所」になっている。ここには公立学校における、教育の均等化という大義名分のもとグルグル回る教員配置の問題も絡んでいます。いわゆる、
・望んでもいない、信じてもいない、確信もしていない、学んでもいない
教授法を強要される悲劇が生じているのです。だから、前線の教師といえど数年たてばいなくなるわけですから
「この教育手法は、オレが責任をもって・・・・」
という教師は1人もいない。誰もこの教育手法に関しては責任をとる、という感覚もなければ体制もない、ということです。だから「保護者まで巻き込んで意識改革を・・・」という教師も現れない。
こういうのを「テキトウ(適当)」というのです。適当に教育してます。ということです。教師はテキトウにやれば済むでしょう。しかし、生涯に一度しかない、3年生の時期を・・・5年生の時期を・・・・子どもは、二度と取り戻すことは出来ないのです。
子どもが学校を選べない校区制、公教育の場においては、1時間1時間が本番です。
「この学校では、教員の学びを深めるためにも、子どもをサンプルにテスト試行してます。」
では困るわけです。教員資質向上、保護者認識の向上という体制が整って始めて実施されるべきなのです。
よって、こういう状況の整わない学校においては、1日も早く、 コの字型机配置で、教壇を外し、生徒の目線で聞こえるか聞こえないかの声でボソボソ語れ、リボイスせよ、頭ごなしに叱るな、声のトーンを下げよ、とする授業スタイルから、
従来式の寺子屋式机配置に戻し、奈良時代より継承し、積み重ねてきた日本の授業形式、つまり教師は、1時間1時間の授業に「単元目的・単元設定の理由・身につけさせたい力・・・・・・」を設定し、という授業スタイルに戻さなければなりません。
佐藤学氏は、その著書において「黒板と教卓を中心に多数の子どもが一人ひとり一方向に並べられた机で学ぶ教室、教科書を中心に所与の知識や技術を習得させテストで評価する授業は、日本を含む東アジアの国々を除けば、すでに博物館に入っていると言っても過言ではない」としていますが、実際は、アメリカも2000年のデューイ思想の失策に気づき、寺子屋式一斉授業の授業スタイル変更しています。この机配置に日本人の教授の叡智・教授の秘儀が隠されています。「己の敵は己の内にあり」そして目的に向かって進むエネルギー、学ぶ力は、一斉授業の中で育つのです。また、佐藤学氏は、その著書で「・・・・伝達し説明し評価する授業から、触発し交流し共有する授業への転換・・・・」としますが、教師は人生の師として、時として熱く語り、時として子どもの不幸に涙し、時として子どもの歓びを我が歓びとして歓喜する。教師が「共有の師」となるときに始めて子ども達は師を敬い・貴びと畏敬の念を覚え「ありがたい」という感謝する豊かな心を育むのです。これこそが「響き合い・つながり合い」の教育へと通じていくです。ですから基本は、寺子屋式配置、時として屋外、時として班別、時として・・・・で良いのです。

 ※ リボイスとは、生徒がどんな意見であれ、その内容を同じように教師が復唱する行為をいう。

 3,中心感覚が低下し、年配者や師への敬意を忘れる。

教師は生徒よりも高い位置、教壇に上がり、教え・導くという発想ではなく、教壇を取り除き、生徒の中に溶け込み、同じ目線で、「コの字」形の机配置で、互いに平口でフラットな関係(生徒の先生へのタメ口 可)を築こうとするので、中心感覚が低下する。 こういう授業スタイルの中で毎日生活すると、「どこが中心か?」を感覚でつかむ能力が無意識のうちに希薄となり、結果として次のような現象を招く。

 ・例えば、小学校では始めて社会と触れあう修学旅行などの団体行動において、
  説明をしているバスガイドを無視した態度などが横行する。
  いわゆる「共同体」認識の前に「個」が表出し、まとまりがつかなくなる。

 ・特に、家族に対しても中心感覚が希薄になるので、親への不敬・手伝いをしない
      ・年寄りを貴ばない・・・・・などの現象を生む。

 ・実社会では、社長がトップダウンで指示する。無条件で、年配者を敬う。・・・・であるが
  こういう感覚と疎遠になる。学校では教師への平口が通常であり、
        必然的に言葉も丁寧さを失するようになる。

本来、実社会と隔絶された教育批判に始まり、接点を求めるべく教師が溶け込み、自らの「気づき」「興味」をサポートすべく再構築されたはずの教授法が、こういう結果を招いているという事です。

では、何故にこのような現象が起こるのか?人の心の内に秘めた怠慢性や自堕落性を甘く見た、ということです。いわゆる、人間分析が不十分なまま構築してしまった教育手法だという事です。

 4,学力の著しい低下。

この教育論は「教える・導く」ということをしません。「教える・導く」には目的が必要です。しかし、すでに触れた通り、デューイは
「目的は時代の価値観や環境によって変換するもので、絶対的究極の目的などはない。」
という立場ですから、授業も従来のように、教師は指導案の中で、目的やねらい・・・などを設定しません。それが諸悪の根源だからです。良く言えば、「テーマに対して生徒1人1人の意見を同じ目線で良く聞き、臨機応変に対応・・・」ということになります。悪く言えば「目的もなく、導きもなく行き当たりばったり・・・・」
ということになりかねません。 ところが、現実には、授業というものは、如何なる学校でも文科省の枠の中で進められていますから、時間制限があります。チャイムが鳴ります。
例え、ある生徒がテーマの主題から外れた「とんでもない発言」をしても教師はそれをリボイスして、全体へ投げかけ、 他の生徒が修正するのを待つしかありません。特に、小学校などでは、この横道にそれた発言が頻繁に起こります。 ここで登場するのが「テーマにもどす」という行為です。それた事を指摘するのではなく、「もどす」。もどすとどうなるかというと、軌道修正されるどころか違った「とんでもない意見」が生まれる現象が起きます。力量ある教師はここで、子どもの心象を感じ取り、ちょっとした「つながり」を探りながら「もどす」という工夫をします。しかし、経験の浅い新任の教師では「とんでもない発言」に右往左往してしまうのです。
そこで、どの単元も従来の教育で言うところの「目的・ねらい」に至ることなく、未消化のまま次の単元に進めなければならなくなります。こうして授業が全て旧来の「学力」からも大きく逸脱してしまうことになります。
つまり興味・関心・やる気から生まれた「自発的な学び」は確かに貴いものですが 、自ら学び・考え、主体的に判断することが出来るためには、基礎学力が必要であり、その基礎学力を身につけるためには、

   「興味があるだとか、ないだとか、関心があるだとか、ないだとか
    にかかわりなく、文字が読める、間違いなく、おつりの計算できる、九九・・・・・などは
     それが「詰め込み」と表現されようが、
          「知識伝達型」と表現されようが、学ばなければならない。」

ということです。むしろ、ここで「忍耐力や自らを律する心(自律心)」などが陶冶されるいことも認識しなければなりません。 ここに「知識は体験を通して自然と身につく、反復学習は必要ない(※注1)」などと即断してはいけないのです。(関連する主張 ※注2)

次に関連して、一例を挙げます。
佐藤学氏の主張によると、
 生徒の学力向上が阻害されるクラスの特徴として、
  ・ロボットのように教師の指示に従い授業を受けるクラス
  ・生徒が元気よく教師の質問に答えようとするクラス
 の2つが示されます。両者共に、生徒が授業内容についての思考を放棄しており、教師の顔色だけを
 伺っている。これでは困る。そこで生徒の学力向上が促されるクラスを定義すると
 静かなつぶやきと会話が蔓延しているクラスである。と佐藤氏は定義し、
 「学びあう共同体」と位置づけます。

 ですから教師はその私語を上手に拾い上げ、授業の中に埋め込んでいけばよい。
とします。 例えば、このようなフレーズがあると、
学究肌の教師が「なるほど〜」とコロリとなるわけです。
しかし、例えば、実際の現場で、教師が質問を投げかけると、ワイワイガヤガヤとなった。このワイワイガヤガヤに耳を傾ける教師・・・、でもそこには全く質問とは関係のない昨日見たテレビアニメの話しになってきている、ここで、
「おっ、これは関係のない話が展開しているぞ、テーマに戻って阻止しなければ・・・、待てよ、これが悪いんだ。もう少し待ってみよう。これがテーマに結びついてくるかもしれない。おーと、あと10分しかない、こりゃ〜もどらないぞ(汗)、限界だ!よしテーマに戻ろう、
「○○君、先生の質問をもう1回言ってみて・・・・」
「え〜と、え〜と ○△・・・・・・です」
「○△・・・・・・、だな」(教師リボイス)
おーと、ヤバイあと2分だっ!
で、目的も何もなく、ただの雑談でチャイム。
ところが、従来の一斉授業だと間髪入れずに、私語は慎め!ないし
「コラッ、それは質問からズレてないか?」「いえ、アニメの中で似た質問があったんです」「おーそれは何だ?」
・・・・「なるほどな〜、でもね○○という考え方もあるから理解しとけ!ハイ、じゃあ次の質問〜」とパンパンとリズミカルに、同じ1時間の中で7つも8つもの発想パターンを知るわけです。これを「学びの共同体」では、一方的に知識を押しつけているから「知識伝達形」の授業として嫌います。そこには子どもが「考える」という最も大切な部分が成り立っていない・・・・、と。
ところが、実際は、子どもはひとたび、多くの発想パターンを知ると、それが実生活の中で、先生の言葉を思い起こし、蘇り、「家族の対話」に出てきたり、「友人との関係」で発想されたり、こうして心豊かな体験を生み出します。
この前者と後者の違いはどこにあるでしょう?
 ●前者は、人の生活の中から「授業」だけを取り出して、そこに全てを放り込もうとしています。
  欲張るあまり、アニメの話題に終始してしまいました。昼休みの友達との雑談そのものでした。
 ●後者は、実生活全体を見ています。生活パターンはそれぞれ違うし、個々の体験を通して学べ!
  ただ、発想の素材はいろいろ提示したぞ!この授業で子どもは、次の事も学びます。
    ・人が話している時は、私語を慎まなければならない。
    ・あいつ、大きな声でアニメの話しを先生にしたよな〜大きな声で、ハッキリ言えてスゴイな〜
     大きい声が勝つって事もあるんだよな〜(実社会は、パワーバランスで動いている)
     等々
ここには「学びの共同体」が根底にはらんだ重大な問題があります。
佐藤学氏
(デューイも同様)もその著書に記している通り、論の構築にあたって、かつてマルクスが資本主義の徹底した観察から共産主義思想を生み出したように「徹底した一斉授業の観察・分析をベースにしている」ということです。これは氏の全ての理論構築のベースになっており一見、この手法が現場主義のように錯覚されますが、一斉授業分析の1対極論だと言う事です。生活の1シーンである授業をくまなく分析し、不足する部分を授業に入れたのです。すると見事な「理想授業」が出てきました。当然、そこには、家庭での親子関係の分析、地域社会との分析、教員配置・資質の問題など周辺分析が希薄です。にも係わらず、それは、あまりに不足を補い、問題をえぐった理想授業(佐藤氏の言う「静かなつぶやきと会話が蔓延しているクラス」)のように見えたので学究肌の教師は「なるほど〜スゴイ」採用→試行とな るのです。
こうして、結果的に、理想は掲げても、周辺環境が整っていないために、極めて進化速度の遅い授業を積み重ねるため、学力が低下するのは当たり前、といえば当たり前の事でもあるのです。

※注1
佐藤学の提唱する「学びの共同体」思想では、音楽など反復学習が効果のある科目もあるとする。

※注2
和田秀樹氏によると『ポスト学歴社会の選択』『論争・学力崩壊』中公新書において、学歴社会の終結と少子化・ゆとり教育により、勉強しない子の増大と学力の低下を発生させた。そうした中でポスト学歴社会の選択としては、
  ・勉強する子に引っ張ってもらう、か
  ・もう一度、勉強するようにエサや強制力を与えて受験勉強を復活させるか
のどちらかしかない。前者を選択すれば、貧富の差は拡大し、国民全体の教育レベルは下がり、治安もわるくなり、製造業立国から降りざるをえないという問題があり、後者の選択しかない。受験戦争もやりようで、自分を知りメタ認知を磨くトレーニングになりうる。とし、ある意味「より吟味された新たな一斉授業論」を展開している。

また、苅谷剛彦氏は、『理科・数学教育の危機と再生』(岩波書店、2001.7所収)において
「学力低下」について「これまでの改革が意図した成果をあげるよりも、勉強離れや学力低下、さらには教育における不平等の拡大といった、改革が予想をもしなかった結果を生み出す可能性が見えてくる」とし学力の実態を証拠として示すことを目的に取組まれたのが、苅谷グループの調査
「東大・苅谷剛彦教授グループの調書「学力低下』の実態に迫る」(『論座』2002年6/7月号)
でありこの調査で以下の事を掲げている。
@10年間続いた学習指導要領のもとでの教育が基礎的な学力の定着に十分ではなかった。
「自ら学び自ら考える」力を育てるためにも、基礎的な内容がわかりやすく教えられたのかどうか、それを子どもたちがきちんと身につけているかどうかに、公立学校はもっと責任をもつ必要があるし、少人数学級の実現など行政もそれをサポートする義務がある。
A基礎学力の格差拡大が進んだ
基本的な内容が十分身についていない子どもが増えている実態をふまえると、子どもの主体性にまかせるばかりの教育は、発展的な内容を含む体験学習や調べ学習の場において、さらなる格差を拡大しかねない。言われている学力の「ふたコブらくだ」も改めて確認されたが、この現象には通塾の影響もあり、格差の拡大傾向が見て取れる(特に中学校数学)。
B公共性の問題
「教育の階層差」をいかに克服するかが今日の課題となっているが、結果は、学習意欲にとどまらず、実際の学習行動の面でも、家庭の文化的な環境の差が大きく表れている。

 5,学力格差の加速。

通常、世間が考えている「学力」とは、いわゆる「読み書き・計算・読解力・・・・」のことで、筆記試験により学力測定が行われています。 しかし、デューイの理論では、学力とは、子どもの「興味・関心・意欲」を含み、詰め込み教育にたいする強い反発をしめし、 これは現代の文科省、総合的な学習の手法とも相違します。特にデューイの理論によると子どもが 意欲を示せば=(イコール)学力が高いとカウントします。よって、プリント学習・習熟度別学習などは排除されます。 ここに「学力」に対する大きなズレがあります。どちらが正しいのか?学力とは何か?(※ 注1)は別としても「学力」に対する視点の違いがあることは確かです。
よって、保護者は、保護者の考える学力向上のために、「塾」通いをさせます。 塾では予想とおりの「読み書き・計算・読解力・・・・」がドリル形式・習熟度別タイプで精力的に進められます。当然の事ながら、塾に通う子と通わない子との格差が開くこととなります。

特に、2000年前後に、デューイの教育論の弊害が噴出し、アメリカの学力低下が世界データからも明かとなり、デューイ思想から、カリフォルニア州を最後に完全撤退したことと、皮肉にも、この2000年前後から、ゆとり教育推進で、日本がデューイ的思想を取り込んだ ことが並行したために、日本では、塾・通信教育・家庭教師という環境を得た子と、そうでない子との学力格差が顕著になります。
親の年収と子どもの学力が比例するというデータが世に出たのも、ちょうどこの時期になります。
かつて、学力は学校で・・・、よい学校を求めて・・・・、という時代がありましたが、
今や、良き塾を求めて・・・・、良い塾の先生を求めて・・・・という時代になっています。
塾が主体で学校は付録という意識レベルの保護者が増え、学校の通知票はかつての権威を失い、むしろ塾の主催する一斉テストに一喜一憂し、塾の三者面談がウェイトを大きくしています。
実際、家庭学習のほとんどは学校の予習や復習ではなく、塾の宿題に費やしているのが実態です。不幸なのは親で子どもが2人いれば毎月4万円 3人いれば6万円・・・・とかつてなかった教育費が生活を逼迫させています。 ついには、現在の塾を公立にし、学校を塾にしてはどうか?と安易に発言する保護者もいます。

今後、「学びの共同体」思想にあたっては、保護者の「学力」に関する価値観をどう変えていくのか? 「読み・書き・計算」で良しとする親の意識をどう変えていくのか?が課題となるでしょう。

ただ、 1つの救いは、佐藤学氏はじめ2000年当時、文科省の推し進めたゆとり教育は、学研・公文・チャレンジ・七田・・・・ など塾産業の発展には大きく寄与した事は疑いようのない事実であり、評価されなければならないのでしょう。

※注1
学力とは何か?いわゆる「学力観」については、加藤幸次氏・高浦勝義氏・奈須正裕氏・市川伸一氏・須田勝彦氏・佐藤学 氏、滝川洋二氏など様々な学者による論文・書籍がある。また文科省の捉えている「学力観」もあるが、何を持って「学力」とするのか?は統一見解が見いだせていないのが現状。

※この「学力格差を生む」という問題は、佐藤学氏も論座(朝日新聞2005年2月)で、「『改革』によって拡大する危機」という論文を発表しています。その中で、
「受験産業や予備校や塾は『学力低下』論議の恩恵により収益を増加させ、見事に復活している」
「文部科学省による教育内容の三割削減と『学力低下』論議は、皮肉なことに受験競争の復活と受験産業の再生を生み出した」

としています。

 


以上、5点 (・いじめ、犯罪の増加  ・権利を主張し、義務を果たさなくなる。 ・中心感覚が低下し、年配者や師への敬意を忘れる。 ・学力の著しい低下。 ・学力格差の加速。 )について触れました。その他にも、この教育手法がもたらす弊害は枚挙にいとまありません。

最後に理解頂きたいのは、私は、デューイから日本では「学びの共同体」として展開する、その流れを完全否定しているのではありません。
冒頭の「適正配置」の問題について記しましたが、私は、競い合うベースから助け合うベースへの指導が教育界に、浸透すべきだと考えています。特に、従来の 知識伝達形の現状に対して、興味・関心に根付き、共感・共生に基づいた「学びの共同体」思想は、2000年から始まったゆとり教育には格好の教授法を提示し、今、まさに「静かな改革」として日本に広がり、勇気づけられた・出口を見いだした、と教職員の高い評価を受け、膨張しています。また、ここでは触れませんでしたが、
冒頭で掲げたネル・ノディングズのケアリング手法も教育界に大きく影響を与えるものと考えています。そういう意味からは、佐藤氏も「左翼思想家・ 横取り学者 ・御用学者」と叩かれながらも教育界に大きな一翼を担ったものと思います。
ただ、「学びの共同体」を教育現場で実施するにあたっては、
    ・教師をとりまく教員配置の問題
  (新規の教育手法を取り込む学校は、校長は責任者として7年以上の在籍を義務づける。など)
 ・教員資質向上の問題
  (新規の教育手法を取り組む学校は、資質向上のための研修カリキュラムを設定し、
            新任教師を育成し規定する。 基礎理論・指導技量を習得した者のみが担任として
   その任を果たす。など)
 ・保護者教育の問題
  (平日は毎日、夜2時間、ないし休日に、学校主催で学びの会を実施する。
   職員室にPTA会長の席を設け、教員同様、毎日出勤とし生活の保障もする。など)
なども射程に入れなければ、理想とかけ離れた「とんでもない授業」を積み重ね、アメリカ教育の二の舞になるのではないか、ということです。デューイの残した顛末、特に2000年以降のアメリカの猛省を歴史の中から紐解き、再び日本で繰り返す悲劇とならないよう、そして思想・信条の前に命にとってどうなのかという視点から改めて精査し、万全の教育体制で再構築していく必要があ ります。
その為には 特に「学びの共同体」思想における受信型授業では、「聴く、もどす、つなげる、響き合わせる・・・」という教師の高度なテクニックが要求されます。教師も片手間で出来るようなものではないでしょう。
  ・ 夏休みに年次有給休暇を消化・・・・、
  ・夕方(時間)になったら帰りましょう。
という日教組教師感覚では到底、成就するものではありません。子どもの教育の為に、休日返上し、家族を犠牲にしてでも本気で取り組まなければなりません。 日本での提唱者、佐藤学氏でさえ1日3時間睡眠で取り組んでいるといいます。現場の前線に立つ教師は、それ以上に努力をするのは当然です。そして、本気でこの教育を推進する覚悟が無いのなら「辞表」を書け、ということです。 そうすれば、やがて覚悟ある新しい教師が配属される可能性があります。その覚悟もないのに、この思想を理想の教育として推進するならば、上述したような惨憺たる授業を繰り返し、子どもを犠牲にし、また親に、学力は塾で・・・という経済負担をさせるだけです。 それでは子どもや保護者に何度、頭を下げて詫びても詫びたりないでしょう。許されません。
管理者(校長)にも、最終責任者として、次の3項が要求されます。

 1,己が理解し、最後まで責任が持てないのならば、学校で採用してはならない。
 2,己が理解していても、「学びの共同体」を推進する教授レベルが
         校内に保障されていないなら、保障されるまで採用してはならない。
 3,上記2項が整っていても、保護者を巻き込むシステムがなれば採用してはならない。

実態はどうでしょう。グルグル変わる教員配置の問題で、 悲しいかな、3つとも叶っていないの現実です。
この壁は教育体制の問題でもあり、文科省改革でもあり、簡単に人事の問題にまで介入できないのが現実です。そのパワーバランスにも気づかなければなりません。であるならば、今は新教育体制への移行期間だからと、安易に、この妥協期間を延命させることは、混乱をまき散らすことに外なりません。
この早い時代サイクルの中で、10年かけて成就しなかったものは、ほぼ成就しないと考えるべきです。
その壁の厚さを棚上げして、安易に「教師のための学びの会」などを企図するのも躊躇すべきです。
佐藤氏においても、数年前から「ゆとり教育」の反省としてから起こった教育再生会議の趣旨
ゆとり教育の見直し、全国学力・学習状況調査の結果検証、授業時間の増、学習指導要領の弾力化、教科書の質量充実、習熟度別・少人数指導、特別支援教育体制の強化など
とは、「学力観」のズレから、すでに乖離してしまっている事は承知のはずです。種を撒くほどに、教育現場の混乱はいよいよピークに向かうでしょう。
時既に遅く、撒いた種を刈り取れないところまできていることには同情します。
しかし、少なくとも私学ならまだしも、公教育の場において、種まきには、終止符をうつべきです。その勇気ある英断が、日本の未来の為にも、求められている時に至ったと判断します。
また、本来「子どもを中心軸とした学校教育改革」を熱望して誕生した「学びの共同体」思想が、不本意にも、人権擁護団体や「人権」を隠れ蓑にしたCAP
(子どもへの暴力防止教育プログラム)・日教組 活動に利用されている現実を憂うばかりです。

教育は人をつくる、人が文化を育み、豊かな社会を形成するのです。 地域社会も含めて、万人が教育者です。万人が、未来の孫子のためにも、この現状を深くえぐり、本気で向かわなければならない時であると感じます。

(文責 別府教育史料館 安部浩之)

 

以上原稿のPDFデータは以下

PDFデータ(26P分)

 

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