TOP

 

適正配置における「切磋琢磨」という魔物   

Demon "Compete" in the optimum placement.

 


 

少子化が全国的に進行する中、すでに経済構造は大きな転換期に突入した。
教育界もご多分に漏れず、文科省では、生徒数の激減から
学校の統廃合を「適正配置」(下記 ※注)という名の下(もと)に全国的に推し進めようとしている。
気になる点は
生徒数が少ない → 「切磋琢磨する機会が少なくなる」
とのフレーズが、全国都道府県の統廃合のデメリットとして頻出して報告されており、
いわゆる統廃合を推し進める重要な理由となっている。

しかし、この構図に、単純に首肯することは安易であると判断する。
なぜならば、この「切磋琢磨」という言葉の前提に
 ●「人は競争によって磨かれるのである」
という意識があるからである。
果たして、そうであろうか
確かに、戦後教育は追いつけ追い越せ、右にならえで
一斉授業に邁進させ、「読み・書き・ソロバン」的な詰め込み教育に邁進した。
その結果
文句も言わずに働き、会社に忠誠を尽くす企業戦士を育成し、
資本主義社会における高度経済成長という大役を果たした事は確かであろう。

しかし、これからの教育はむしろ、この豊かさの上にあって
 ●「人は、助け合いによって磨かれるのである」
という真逆(まぎゃく)のスタンスがあることを理解しなければならない。

この違いは大きく、 こういった、小規模校・大規模校のメリット・デメリットに限らず
どちらの位置で見るのか?で、評価が大幅に齟齬(そご)する結果になることを
理解しなければならない。
しかし、悲しいかな、現状の教育評価については
圧倒的に「人は競争によって磨かれる」的立場からの視点が大きく
これでは人間の実態が見えなくなるばかりか、
ひいては教育自体の方向性を誤り、教育界に大きな風穴を開けてしまうのは必至である。

これは実際に私が教育現場にて体験した事であるが
授業に、班別スタイルを適度に取り込む事で次のような教育効果を実感した事がある。

 1,班別(少人数)にすることによって、個々の意見・個性が浮き彫りになり
   違いが、より鮮明化してくる。
 2,班別(少人数)にすることによって、個々の意見・個性がリアリティを強くする。
 3,班別(少人数)にすることによって、異なる意見から、次のステップ(アクション)
   が、自発的に導かれやすい。
 4,班別(少人数)にすることによって、烏合の衆が生み出した他人事・無関心的意識が
   自動的に消去されやすい。
 5,班別(少人数)にすることによって、個のウェイトが強くなり「本気」になりやすい。
 6,班別(少人数)にすることによって、いわゆる「切磋琢磨」(正確には「やる気」)する傾向
   を生み出しやすい。

などである。さらに私は、その後、教育の現場を離れ、企業における社員教育に係わる部署で10年間、
この効果が社員の育成にも適用している事を実感してきた。
特に、上記6項目、数が少ないと1〜5のに導かれ、皮肉にも、
少ない方が「切磋琢磨」する傾向に向かう という現実である。
これについいては多言を要したいところであるが、ここでは控えよう。

私はこのような実体験から、人が生まれ、親の愛に育まれ、正しく成長していく過程においては、
人は、人の違いを役割や長所と心得て、イキイキと助け合う方向に向かうことを実感した。
また、最先端の生物学・量子力学に視点を向けると、命は決して
「戦って磨かれ、淘汰によって進化した」
のではなく、
「助け合って磨かれ、進化した」
のであるということ学び、別の視点からも確信を持った。
つまり、日本人が、戦って磨いた能力は、これからは助け合って磨いていかなければならない。
その発想のスタンスこそが必要であると実感する。

そういう意味では、ここで言う「切磋琢磨」とはニュアンスは異なり「やる気」という表現の方が
的確であろうし、
 ・仲間は敵ではなく「切磋琢磨」という感覚では困る、
 ・その文言をデメリットに表記されては困る、
とさえいえる。

少子化に伴う教育改革が進行する中、 次代を担う青少年の育成に無頓着であってはならない。
そして、万人が、これからの教育をつぶさに吟味・正しく評価して、次のステップを踏まなければなら
ない。
教師は、前線に立って、教育を導く者として、教育手法を超えて、
人とは何か?、何のために人は生まれたのか?、幸せとはなにか?
という原点を問いかけ、扉を叩き続けなければならない。
教育審議委員・学校評議委員・・・、然りである。安穏としてはいけない。
今の審議が、来る孫子(まごこ)の命運を大きく左右するポストにあることを自覚しなければならない。
また
教育予算は、神の言葉ではない。絶対の前提ではない。
「まず、予算ありき」で教育改革をしてはないらない。
教職員の適正配置も含め「子ども達には、これが必要だ」から逆算して
予算変更を求めなければならない。目の前にいる子ども達に最高品位の教育を提供するために
現場の実態を、声高にうったえなければならない。
例え、その壁が、高く厚くとも、子どもたちの未来を想い「辞職」を覚悟でうったえなければならない。
それが公務に携わる者の「誇り」であり、「誉れ」となるであろう。  

                                      安部  浩之



※ 適正配置について
すでに数十年前から「適正配置」問題は旧文部省時代から上がっていましたが、具体的には、小・中学校の規模や配置のあり方を検討するために、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)初等中等教育分科会が設置した作業部会(「 小・中学校の設置・運営の在り方等に関する作業部会」)が、2008年7月2日から審議をはじめています。文科省が推し進めようとする統廃合方針がでれば、学校規模についての国の基準が35年ぶりに変わることになります。
旧文部省は1958年に「1校12〜18学級」、通学距離で約4`b以内という基準を示しました。しかし、強引な統廃合が問題となり、73年にこの基準を下回る小規模校も容認する通達を出していました。通達は、学校規模を重視するあまり無理な統廃合を行うことは避ける、小規模校として残し充実させるほうが好ましい場合もある、住民の理解と協力を得て進める、などとしていました。
しかし近年、この通達を無視した一方的な統廃合が横行しています。その背景は、国の教育予算抑制策です。政府は2007年6月、国際的にも低水準の教育予算をさらに削減する方針をかかげ、「学校規模の最適化」=学校統廃合を示しました。
2007年12月の「教育再生会議」3次報告も、「国は、統廃合を推進する市町村を支援する」と統廃合推進をうちだしました。
※ 文科省とりまとめの「小・中学校の適正配置に関するこれまでの主な意見
 

  大分市 A . A さんの感想メール

こんにちは。「適正配置における切磋琢磨という魔物」を読みせていただきました。
私の気持ちをまさに言い表してくれた!!という感じです。
小規模校を卒業した○○も、今現在通っている○○も、少ない人数で人とのかかわりあいを濃厚に体験し
ていると感じ ています。
少ないからこそ、ひとりひとりの個性が存分に発揮され、それゆえに意見がぶつかり合うときも真剣です。
しかし、少ないからこそお互いに支え合って、助け合って、認め合って、許し合える。そんな場面に何度も
出会いました。
大規模校では、学級で問題が起こったとき、年度が替わればクラス替えがあるまで我慢・・と、「離れる」
ことを問題解決 にしてしまいがちです。それは、とても楽だろうと思います。
でも、小規模校では6年間おなじ顔ぶれ。問題に真剣に向き合わなければなりません。
小学生の純粋な真剣さに涙がでたこともありました。無関心ではいられない関係。まるで家族のようです。
生徒数が少ない → 「切磋琢磨する機会が少なくなる」は、卓上の空論。現実は、全く逆。と感じて
います。 とくにかく、「適正配置」が本物の「適正配置」になることを願って私たちも努力していきます。
 

返信
私は現在の教育体制を思うほどに忸怩たるものを感じ、教育委員会はじめ関連諸機関の壁の厚さを実感
します。
特に「適正配置」に関しては、まず予算ありきで、そこからメリット・デメリットが文科省指導のもと、教育
委員会で 構築され、この方針を通すために、既に出来上がったシナリオ通りに、各種審議会が回数を重
ね・・・・・・ 教育現場に方針が届く頃には、実態としては、既に遅し。という現実を憂うばかりです。ここに
反旗を翻す管理職 (校長)もいなければ、命を賭して戦う教師もいないからです。また保護者も然りで、
教育は学校と塾任せを当たり 前かのごとくに生活を送っています。かくして教育現場は骨抜きにされ、流れ
のままに漂っているしか見えません。
この無関心は「適正配置」の問題に止まらず、例えばこれは実際の例であるが、
ある新任小学校長が佐藤学氏の提唱する「学びの共同体」 思想を、これはスゴイと、保護者へは何の
説明も無く、 小学校に取り込む、取り込んだ校長は 案の定、2〜3年もすればいなくなる。
しかし、この教育方針だけは残り、数年で入れ替わり立ち替わりする教師 は「教育の本質」を何ら吟味
する事な く続けられ、「赴任したら、たまたま・・・」感覚で、毎年、当たり前かのごとく公開研究授業が
開かれる。
ついに新任教師は保護者の前で、「始めての教育スタイルで不安です。」と平気で言ってのけ、佐藤氏
の本を 始めて読まされる。物づくりの現場ですら「このテレビ、映るかどうか不安です。でも買って下さい」
なんて話しは 通らない。しかし、教育の現場ではまかり通っている。「これはおかしいぞ」と誰かが気づか
なければならない。
学校は教師の研修所ではない、子ども達は生涯に一度しかない、小学校2年生の時を・小学校6年生
の時を過 ごすのである。子ども達を犠牲にしてはいけない。「教育は人をつくる」「教師はその人づくりの
アドバイザーである」 それだけに万全を期すべきである。生徒が学校を選べない校区制という、公教育の
現場では、 その姿勢が必要 である。
その程度ならまだしも、大分県が暴露され話題にもなったが、お金があれば教壇に立てる。50万円あ
れば校長に もなれる・・・・。と教育者がお金で動かされている。
結局、万事がこの体(てい)たらくで、挙げ句には、未来を担う青少年は権利ばかりを主張して、義務
を果たさなくなり、 国体が弱体化していくのだ。
それだけにA.Aさんのように真摯に子どもの教育に向き合う保護者の方に出合うと、救われた思いが
します。
どうぞ、これからも未来の子ども達を思って、あるべき教育の姿を問い続けて欲しく思います。     
                                                                                                                            安部 浩之