人の幸せを祈る
 

町づくりとは「人の幸せを願う」から始まる

安部浩之作品No,080824
                              文・illust,Kohsi

 

今、どこもかしこも、町づくり・地域振興が盛んです。

近年では、大学などの研究機関までもが、相応の学部学科を設け、アピールしている状況です。

改めて、我々の町づくりとは、どうあるべきなのでしょうか。

ここでは、環境免疫学の視点から改めて見つめてみたいと思います。

 

まず基本の理からはじめよ

 ・変化してはならないもの、

 ・変化してよいもの、

 ・変化しなければならなないもの・・・

と、それぞれ、あります。

私達は、この事を日常生活の中でキチンとわきまえて生きていかなければなりません。

そのために「学び」があるのです。ですから大切なことは

「変化してはならないものが何か」

を、まず先に理解することです。

それがなければ、善し悪しを考慮することなく、また、何を譲(ゆず)って、何を譲ってはならないのか

も解らず、全てを時代の流れに沿って合わせていかなければならず、

人類の文化・叡智・教え、は全て「古くさい教え」として葬り去られてしまうからです。

この講座は、この、変化してはならないものを理解するためにあります。そして、その学びとして

自然から産まれた人間だから、自然の叡智に学ぶ、が確かな道筋である。

を基本としています。

その意味からも本講座の理解は、あらゆる発想の基軸になります。

当然と言えば、当然です。何よりも、「人のあるべき姿から幸せを追求」していますから、

ここを理解すると、例えば「町づくり」というものも、どうあるべきかも自ずと発想出来るようになります。

逆に言えば、ここから始めないから、

「町づくり」というと商工業者も役所も一緒になって、

 ・あの地域では、この祭りで成功した。ならば・・・・

 ・あの地域では、この企画で何万人、人を集めた。ならば・・・

と万事が、他の地域の「まねごとから始まる町づくり」に終始してしまうのです。

悪い事に、お偉い方々をお招きして情報交換・勉強会をするものですから

「イイ話しを聞いた」と、勉強した気分になり、いよいよ視点が、そちらにのみ向かうのです。

結局、「まねごと」が連鎖し、どこも似たような町並みになり、

まねられた方も、まねた方も、新規性をなくし、低迷化していくのです。

私の住んでいる近くの湯布院という町も然りです。一頃は、オシャレな町として

別府温泉よりも有名になりましたが、

今まさに、湯布院自体がまねごとの町づくりにいそしみ、また、有名になれば「まねられ」・・・

低迷の方向に向かいつつあります。


昔は

下図をご覧下さい。昔と今の生活環境の変化を図示しました。

上図の通り、かつての生活環境は生活の基礎となる衣食住の産業が、生活エリアの中にありました。

ですから、必然的に家族は一致団結して、そのエリア内で、農業や林業や漁業に携わり、

食を確保し、地域を形成していたのです。

こうして人が集まった町は、必然の如く中心性を成立させます。(関連項はココ

それを、土地を守る神、豊作と町の安泰(安全)を願う産土神(うぶすなしん)として祀ってきたのです。

ですから、現在、祭りで山車(だし)や御輿(みこし)が町単位になっているのは

このような時代背景によるのです。

こうして町民は、神社を中心として、この地域の「助け合い構図」をつくってきたのです。

例えば、茅葺きの屋根でその葺(ふ)き替えは家族で簡単にできるものではありません。

茅(かや)の植栽、管理を計画的に行い、葺(ふ)き替えには地域の達人から子供までもが、

「来年は○○さん宅だな」と加勢に出ます。

つまり、地域が1つとして稼働し、衣食住、補い合いの社会を形成していたのです。

ここに異なる家族・人との触れあいがあり、そのその触れあいの中で、もらい乳などしながら、

地域で子育てをし、地域で老人介護をし、時として「生き方」をも摺り合わせてきたのです。

このような生活スタイルでは、衣食住から人間関係まで全てが循環する姿が見え、

共存共栄という言葉もないくらいに、自然と「他を思いやる心・優しさ」を育てていたのです。


 

今では

一方、今では、このような町の構図から上図、下の構図へと変化しつつあります。

その要因は、いろいろと複合的な絡みがあるでしょうが、

その中で意外と見過ごされがちなのは、昭和30年代から突如として、入り込んだ「車」です。

「車」は地域を大きく変えました。いわゆる、その地域を離れて遠方で働けるという仕組みです。

これは、地域に「家族の分散化」を招く結果となりました。

遠方に仕事があり、そこに行く手段が生まれた訳です。

次第に鉄道がしかれ、バスが通り、飛行機も通うようになったのです。

すると、いよいよ人は収入の糧を地域からではなく、遠方の会社から得る事が可能になったのです。

そうすると、当然、そこに住んではいるが、地域活動に費やす時間は減少し、

地域への意識も低くなっていったのです。

だから、全国どこでも「町づくり」というと住民の集まりではなく、

かろうじて関心の残っている、地域で商工業を営む者の集まりになってくるわけです。

この現象が産んだ功罪は大きく、以下のような顛末を余儀なくされます。

 

 ・仕事を家族総出で成立させる必要がないから、核家族が増加し「家族の結束力」がゆるくなる。

 ・隣人との付き合いが無くなる。

 ・1次産業(農業・漁業・林業・・)の生活密着度が無くなるから、天地自然の恵みを忘れる。

 ・中心であった神社から離れ、畏怖する心を忘れる。

 ・画一化された組織に馴染み、創造力を失う

 ・衣食住から人間関係まで、全ての循環が見えなくなったから、

                           個人主義が強くなる(権利を主張し義務を忘れる)

などです。

ここまで記すと、こう反論されるかもしれません。

   だから、その地域の機能を、今、会社が果たしているんですよ〜。

   営利だけじゃない、宴会や社員旅行、スポーツやレクレーションで、その人間関係は残っている。

   たぶん地域づきあいより、シビアで、上司部下、そして同僚と、人間関係には悩まされてますよ〜、

   付き合いたくなくても、付き合わなきゃならい事ばかり、出社拒否なんでザラですよ〜

いろいろと問題はありますが、この意見に、百歩譲ったとしても、

会社が昔の機能を代役し、果たしてるでしょうか?

ここには決定的な落とし穴があるのです。

上図の「昔」と「今」をもう一度見てください。お気づきでしょうか?図中には記載していませんが、

とても大切なものを「今」は失っているのです。そこに気づかなければなりません。それは、

 その地域の文化・歴史・自然から離れた。

ということです。

だから地域振興の目的は、経済・ゼニの循環に終始し、見返りが無ければ投資しない。

つまり、見返りが数値化しずらい、「心や文化」を見なくなったのです。

その証拠に、全国的傾向ですが、いとも簡単に、地域に設置した文化施設を経営が成り立たない

とばかりに、たやすく民間委譲してしまうのです。

この実体は、その施設に、文化に対する敬意も夢も理念もなかったことを露呈しているのです。

 

当然の事ながら、人は自然から産まれたバランス体ですから反動も出ています。

それが、スローブームやエコ運動・各種フェスティバルに代表される、

自然回帰運動やアート推進活動です。

ただ、それは反動でしかありません。そこには素養がないのです。

ですから、例えば田舎暮らしを始めても馴染めるのはごく一部で、ほとんどが

 ・「虫が嫌い」

 ・「コンビニが無いと不便」

 ・「そこまで近所付き合いしなくても・・・」

と言って、初願も破綻し、都会に戻っていくのです。

また、画一化された社会にどっぷりつかっていたので、枠を超えて創造する意識に乏しく

アート活動も意識涵養にはならず、一過性のイベントに終わるのです。


 

循環が見えると、人は共生共栄を日常とし、優しくなる

こうして、人は地域の文化や自然から離れ、

1次産業が視界に入らない特殊な「住宅街」というものを創り出したのです。

つまり、「昔と今」の違いをまとめると、図示した通り、そこから産まれるキーワードは

「循環が見えたか見えなかったか」です。

別項にて、詳しく触れたいと思いますが、土・水・風・・・と

地球の構成要素は、全て「循環」で成立しており、

人間の生命現象もすなわち循環ですから、循環する姿を五感で感じ、生活射程にすることで、

人は共感・共生を常態化させ、やさしさを産み出すのです。

               (本講座、関連項音・色・形の共感覚  ・共感覚の効果「五感」と陰陽五行

(環境免疫学は、音・色・形を1つのキーワードとしていますが、その見つめているところは、畢竟、循環するのデザイン(循環の色・循環の形)・循環の音に他ならないのです。)

こうして、現代は、天地のゆるぎない循環法則から離れ崩壊へ向かっている。

ということです。


 

「心」を取り戻す

よく、シンポジウムや大学の研究機関で、やるのは、よくやって、ここまでです。

「昔はこうだった・・・・、あの時代は助け合いの構図があった。・・・・」

と比較で終わり、解決したような気分になり、セミナー・講義も観念的な哀愁と共に幕を閉じるのです。

つまり、あとは皆さんで考えなさい。ということで、具体的に、こうしてみては?

というところまでは至らないのです。なぜ至らないのかというと、本気で生き方を問うていないからです。

本気で生きていれば、根源を遡及する方向に向かうのです。

                                                      ※ この手法は、現代の地球科学がとっている論理展開で、

                          水とは?

                          水とは、H2Oである。

                          H2Oとは?

                          H2Oとは、2つの水素原子と1つの酸素原子の結合・・・

                          これで水の内容を解決した事にしているが、

                                                          実際は「水」も「H2O」も「2つの水素原子と・・・・」も全て同じである。

                          表現を変えただけで、「因果の遡及」を目論(もくろ)んではいない。

                          現代の地球人は、科学のみならず、あらゆる場面でこの思考回路を使い、

                          論理展開をしてしまう。

                          ここに地球科学の限界がある。エセ科学のはびこる原因もここにある。

現代に生きる私達は、このような反省を元に、では、これからどうするのかを考えなければなりません。

こうなった流れを、考えてみて下さい。

便利になった生活スタイルの変化が、循環から離れ、心を失った。

わけですから、どうしますか?

1つは、政治も経済も産業も改変し、元の生活スタイルに戻す。

ということでしょうが、これは、この経済成長の上に築かれた今の日本社会では、当然、無理です。

むしろ、車や電車や飛行機により、人の行動範囲が拡大した。

という利点は利点として残し、生かすべきです。

交通機関を諸悪の根源とする必要はありません。

とすれば、スタイルは失えど・戻せなくても・・・・、「心」を取り戻せば良いのです。

では、その「心」とは、どういう「心」なのか、それこそが、ここのタイトルでもある

 人の幸せを願う心

なのです。つまり、

  ・生活スタイル → 変化して良いもの・変化しなければならないもの

  ・心 → 変化してはならないもの

と位置づけ、往事の生活スタイルの中で培われていた「人の幸せを願う心」を、

逆算して呼び覚ますのです。

当然のことながら、これは自分の幸せではなく、他人への心遣いですから、

視野が広がり、これまで見えなかった循環の構図も見えてくるのです。意識の反転です。

これが、確実かつ正常な「町づくりの原動力」となるのです。

のみならず、それは、「町づくり」に止まるものではありません。

人の「生命(いのち)」そのものに肉薄し、天命に肉薄し、「幸せ」に直結しているのです。

 

あなたは、この殺伐とした人間関係・社会の中で、躊躇し・疲れ・病(や)んでいるかもしれません。

組織から離れ、今の生活をドロップアウトして、自然の中でスローにゆったりと・・・

と思われているかもしれません。

しかし、自分の事ばかり考えている、その心が変わらない限り、何も変わりません。

どこに行っても

もっとオレは、もっと私は・・・・、と自分の事ばかり考えるのです。

今の環境は、あなたにとってベストなものではないでしょう、不満もいろいろあるでしょう。

でも、今のそのセッティングは、実はあなたの因果により、あなた自身が創り出したものなのです。

どこに行っても、今のセッティングに向かうのです。だから、

逃げ出さない。

そして、ちょっと、その生活の中に

今日、出会った人の顔を思い浮かべ、「その人の幸せ」を祈って下さい。その心を取り込んでください。

すると、「心のベクトル反転」が夢や希望、生き甲斐を産み出すのです。

繰り返しますが、心の向きを変えて始めて「変容」が起こるのです。

そこから始まる人の「群れ」は本物です。その群れは下図の通り、金儲けのための「群れ」ではなく

「個々が輝く事」が目的で集い、地域の文化・独自性を輝かせる方向(求心→遠心)に向かうのです。

この求心・遠心は、「祭り」とは、次元上昇の縮図である 」でも示した通りです。

その「群れ」が町づくりの原動力となるのです。

『易経』に「観国之光」とあります。つまり「観光」とは、「その地域の光となる人に遭う事」

これが「観光」という言葉の語源です。

これが後世、転じて「風光明媚な名勝地を観る」になったのです。

つまり、町は、1人1人の生き様の展開であり、逆に言えば、町を形成する「人」こそが

町の・・・地域の・・・財産だという事です。そして、どんな苦難の中にあっても「人の幸せを祈る」

その境地の人が育つ地こそが「観光地」というにふさわしいのです。

 

輝かしい愛あふれる町づくりのため、ぜひ、あなたのそばにいる人の幸せから願う、

そこから始めて下さい。

それがきっと素晴らしい地域・町づくりの素地となるのです。

それが、サービスを超えたホスピタリティ(※)の本義となるのです。

 

よろしくお願いします。

 

※「サービス」は、英語の「servant(召使)」、「ホスピタリティ」はラテン語の「hospitalis(客を保護する・歓待する)」。つまり、サービスは対価をともなうが、ホスピタリティは対価を伴わない本来の「心のもてなし」だということです。
 

・講座内、本テーマ関連項 

・「カタチの法則 町づくり

「魔法の○○」なんてありません

人の幸せを祈る

人の幸せを祈る(シンボルマーク)

「祭り」とは、次元上昇の縮図である

「自利」から「利他」へ

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