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  答えは、すべて内にある 
 

安部浩之作品No,111229
                            文・Phot,Kohsi

 

もう、30年以上も前の出来事ですが、私を仏門に誘った1つの出来事がありました。

交通事故です。

私が高校3年生の時、自転車で帰宅中の出来事でした。

交差点で一旦停止を怠った車が、私の乗る自転車の真横に激突、

優先道路だったとはいえ、私も不注意でした。

自転車は20メートル先まで飛ばされ、後でみると自転車は中央部で180°に折れ曲がり、

前輪と後輪がピッタリとくっついた状態でしたから、かなりの衝撃だったのでしょう。

幸いにも私自身は自転車から分離して、飛ばされ、飛ばされた先が八百屋の店内、

スイカに頭から突っ込んだために無傷でした。

しかし、その事故発生から、ほぼ2日間私は昏睡状態が続きました。

その間、私は夢ともいえる1つの映像を見せられていました。

その映像を例えて言えば、パソコンでデータをAからBへコピーすると、その件名が目にも止まぬ

ハイスピードで表示されていきます。そして時折、データが重い部分は件名が長く表示されます。

そういう感じです。いわゆる、当然読めもしない金文字の活字を延々と2日間、超高速で見せられ

たわけです。不思議な夢です。

活字の内容は当然、記憶にはありません。ただ目覚める最後の文章だけスローになり記憶にあります。

「一般に「釈迦」という呼び方があるが、これは間違っている。これは釈迦族という、種族の呼び名

であるから「釈迦牟尼世尊」略して「釈尊」というのが正しい」

ここで目が覚めました。

目覚めてから、理由もなく涙が止めどなく流れました。こういうのは始めての経験でした。

そこから大学・大学院へと、私の仏教研究への道が始まりました。

その研究の中で私は、この事故が陰に陽に大いなる出来事として位置づけられる事になります。

どういう事かというと、

「すでに私はあの昏睡状態の中で、学んだのではないか?」

という推測です。実際は解りません。違うかもしれません。でも少なくとも私は、そう考え問題に直面

すると

「答えは自身の中に既にある。」

と内に問いかける事を習慣としていったのです。

物理や天文学など、絶対に学んだ記憶がないことも、とにかく内に問いかけるのです。

典拠を求めて書物をあさるのはその次としたのです。このスタイルは私に大いなる気づきを与えました。

まず、自分で考え、内に答えを求め、後で先達の考えと照らし合わせる。

このスタイルは、内への接続を常とする習慣となり、

内に求める事で、教えが実生活に根付いたものとなりました。そして、内には途方もない人類創生以

来のデータベースが横たわっている事に気づかされるのです。

それは、学問のための学問を超え、幸せのための学問を常とする生活といってよいかもしれません。

結局、私は、あの交通事故から途方もない宝物を頂いたような気がしています。

そして、その事故を通して、自信を持って言えるのは、

「既に、何人も内部へ気づけ!という出来事が起こっている」

「既に、何人も無限大の答えなり、突破口を持ち合わせている」

ということです。それに気づいていないだけです。無上無比の答えは内にあり、本当に必要な人も

身近にいる(関連項ココいうことです。

そして、人は解決の糸口を自身から見いだすほどに、生きる喜びを見いだすということです。

しかし、多くの人がトラブルや岐路が発生すると、他者に助言を求めたがります。

依存心の強い人ほど、その傾向があります。それは、内部接続を遮蔽(しゃへい)された遺伝情報

の性ともいってよいもので、悲しいかな、この流れを逆行させる外的力と感応してしまうのが人の常と

なっています。

そして、霊能者・占い師・宗教家と称する人たちが、その役を果たします。彼らは

「内に至るまでの手助けをしているのです。」

と、お金のために、その口実を作り出し、結果として依存しなければ

解決できない人たち、運を閉塞・輪廻させる人たちを増殖してしまっているのが、現実です。

 ・回答を外に求めるのではなく、内に求めるのです

 ・自身の進路は自身で決するのです。

 ・トラブル・問題の糸口は必ず内にあります。

 ・自分の会社は自分の経験則や学びを拠り所として決するのです。

例え、それが失敗の結末だとしても、そこにしか学びと成長が伴わないようになっています。

早く、このことに気づくべきです。

どうぞ、日々の一挙手一投足を軽んずることなく、覚めて自身の行動を見つめ内を尋ねてください。

そうすると、内なるものが即ち神性そのものであるところに到達するようになっています。

宜しくお願いします。