人の幸せを祈る
 
炊事に思いを込める  
 

安部浩之作品No,100119
                                                                          文・Phot,Kohsi

 

命を頂くことへの懺悔と感謝の延長線上に炊事がある。

炊事については、すでに「台所そうじのコツ(改めてお読み下さい)において

  ・台所と神棚の関係 ・台所そうじのポイント

についてふれました。

では、肝心の炊事に携わる人は、どういう心持ちで携わるべきでしょうか?

炊事は、

 ・天地の恵みを受けた食材を扱う。

 ・火、水をダイレクトに扱う。

 ・創意工夫が反映される。

という意味からも、思いを込めやすいと言えます。

前項、「洗濯」と同様、それぞれの行動における意味は上図の通りで、如何に炊事に

懺悔→浄化→感謝→創造の構図を思いを込めるかが大切です。

 ・食材を購入 → 天地(光・空気・土・・)への感謝(求心)

 ・調 理 → 命を人仕様に調理することへの懺悔と感謝、

         火・水への感謝、創造の喜び(求心・遠心)

 ・盛りつけ・配膳 → 創造の喜び(遠心)

 ・片付け → 全ての感謝(求心)

となります。具体的には、

 ・食材を見ては、「感謝・感謝、太陽さん、水さん、土さん、微生物さん・・・」

          と天地の恵みに感謝し、その背後にある循環を感じます。

 ・水を見ては、「水があって始めて、調理が可能になります。感謝・感謝・・・」

 ・魚を切りながら「ごめんなさい、命を頂いています。」

 ・人参を盛りつけしながら「息子が食べますように・・・」

と次々に思いを込める事が出来ます。ラジオやワンセグなど見ている暇はありません。

例えば、ここに1本の大根があったとします。

私達はここで、どう調理するか?スグその先を考えます。

しかし、その前に「大根がここに到った」を一瞬でもよいので心を注いで下さい。

そこには、生育に適した深く耕された肥沃な土壌・日光・水といった自然の恵み、

大根を抜いて、洗って、流通させてくれた農家の人・運送ドライバーさん・小売りの方、

といった多くの人の手もかかっています。それを自覚すると

「あゝ、ありがたい」

という気持ちが自然と生まれてきます。

人に野菜を頂いた時も同様です。

「あ〜あ、うちは、みんな嫌いなんだよな〜」

ともらった後(あと)を思うと、形だけの「ありがとう」となります。

しかし、野菜がここに至ったに心を注ぐ、そうすると、心の底から「ありがとう」という感謝の言

葉が出ざるを得ないのです。

食べ物は皆、そういう命の延長線上にあるのです。この延長線上に、人は感謝の心をのせて、

調理に向かうのです。これが優れた料理人の鉄則でなければなりません。

こうして「到った前」を見つめる事で、ようやく「到った後」が鮮明になってきます。

つまり、貴い命を頂くわけですから、命を循環する調理人・家族でなければならない、ということに

気づくのです。そして、必然的に、食する人の幸せを祈るようになるのです。

料理は、心を込めた分だけ、美味しいのです。

なぜなら、念波は有機としての食材には入り安くなっていますから、食材は想いを込める程に

酸化からイオン化の方向へシフトし、最高の味を表現するのです。時としてアクさえも消してくれる

のです。一級の料理人になるほどに「心を込めること」の大切さを主張する所以はここにあります。

 

炊事禅(若き道元の学び)

道元禅師が23才、中国留学の時の話しです。(『典座教訓』道元)

有名な寺(阿育王山広利寺、明代、禅宗五山の1つ)の老僧が、20キロ道を徒歩で、

道元のもとに訪れた。

道元は、中国でも有名な老僧が来られたと、丁重に招き入れ、お茶を振舞った。

 道元 「このご縁を大切に食事をごちそうしますから、今日は泊まっていってください」

 老僧「「いや、今日から、私自身が食事の準備をしなければならないから、泊まれない」

 道元「あなたのような大きなお寺には料理人は少なくないであろうし、他にいるでしょう」

 老僧「大事な修行を他人に譲ることはできない」

 道元「あなた程の僧侶が、食事係のような下働きをされるのですか。誰かに任せて、

    座禅や考案の研究をしたらどうですか?」

すると、老僧は大笑いして、

 老僧「あなたは、辧道の何たるかを理解していない」

と帰ってしまった。

それから、数ヶ月、道元はその老僧との係わりを経て実相を悟る。

買い出しをつまらない仕事だとか、料理は雑用という前提があったが

諸事に「雑用」というものは存在しない。何が尊く、何が低いという発想自体が間違っている。

道元は「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」(四摂法)としています。

ここでは特に炊事禅を強調し、炊事は即ち仏道に他ならない、とし、

この『典座教訓』の結びとしています。

私たちは、ややもすると、日常生活の中で炊事はもちろん洗濯・掃除、お茶くみを厄介な家事・雑用

と解釈しがちです。人類は、目先の安楽を求め、冷蔵庫・電子レンジ・食器乾燥機・電磁調理器まで

発明しました。さらに、最近ではデパ地下が大流行で、手軽な一品物・惣菜セットなどが売れ筋となっ

たり、食材セットの宅配まで事業として成り立っています。また、出来上がったものの方が安上がりだ

と「金」に判断基準を置きます。

こうして、雑用という炊事を可能な限り短縮する方向に向かわせ、

命を創る炊事の時間を奪ってきたのです。こういうのを文明社会とは言いません。

カッコだけつけて、未開社会に邁進していると言うのです。

 

既に記した通り、炊事は、台所という地・水・火・風の揃った抜群の空間で、

  ・天地の恵み(食材)に感謝しつつ調理できる

  ・多品種の食材を使って創造力を発揮できる

  ・調理の中で、食べる家族の健康を願う

  ・調理を通しての自己修練が出来る

物理的簡便に走れば、こういう利点を全て奪われてしまいます。

ですから、調理は決して雑用ではなく、貴い自己修練の機会だということです。道元の言葉を借りれば

「炊事即仏道」という事です。

 

こうして炊事の縷々を見渡すと、生活の中で調理の機会を与えられている人は幸いです。

台所にいながら、地球の恵みと繋がっているのです。この上なく有り難い環境です。

抜群の空間で、思いを込め、料理が出来る。自らはもちろん、家族へも良い想念を贈る事が出来る

のです。

家事として炊事をする方、仕事として調理に携わる方・・・

今日から是非、「感謝・感謝の調理」と心得、食べる人の幸せを願って携われて下さい。

宜しくお願いします。

 

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