人の幸せを祈る

死刑求刑の2人


死刑求刑とは、極端な例ですが、

私達は日々の生活の中で、これに似た構図に刻々、出会っています。

前者は、依存心が強く、幸せを外に求める人であり、

      不遇・不運を「○○のせい」にし、文句の多い人生を歩むようになります。

後者は、自身の生き方を問い、幸せを内に求め、

      自己改革を迫り、文句の少ない人生を歩むようになります。

さらに、この2つの立場の決定的な違い(問題)は、

前者の行動が、そこで止まるのに対して、

後者は、必然的に解決策を見いだし、努力を要する方向に向かうのです。

ここで、この違いは決定的に大きなものとなり、習慣化していきます。

習慣化すると、我が身がどちらの立場なのかさえ、見えなくなってしまうのです。

 

人がこの世に生を受けたということは、即ち、未完成な人間だという事です。

未完成であればこそ、自らの不足に「気づく」という習慣を持った人は幸せです。

そこに、「気づき」が努力を引き寄せ、達成感・充足感をもたらすからです。

その見えざる習慣を見抜くのは簡単です。

  家族や友人や仲間、身近な人に対して、「文句が多いか、少ないか」

です。さて、あなたの今の生活はどちらでしょう?

     

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